終活を進めるなかで、「遺言書はもう書いたから大丈夫」と安心される方もいらっしゃいます。 でも、本当にそれだけで大丈夫でしょうか?
遺言書は財産の分け方や、法的な手続きを整えるうえで大切なものです。 けれどそこには、“感情”や“想い”は書けません。
たとえば「ありがとう」「ごめんね」「あなたのおかげで幸せだった」── そうした心のこもった言葉は、形式的な文書のなかでは抜け落ちてしまいがちです。
「言葉にできなかった思い」が、実は一番伝えたかったこと
実際に、親を亡くした方たちの声を聞くと、こんな言葉が出てきます。
「遺言書はあったけど、親の気持ちが分からなかった」
「本当はどんな思いで遺してくれたのかを知りたかった」
「ひとこと“ありがとう”があれば、もっと心が救われたのに」
遺された家族が望んでいるのは、“遺産”だけではなく“気持ち”なのです。
そして、親としても本当は伝えたかったけれど、 照れくささやタイミングを逃してしまって、言えなかった──そんな想いを抱えたまま、最期を迎える方も少なくありません。
「ありがとう」や「ごめんね」は、財産よりも価値がある
長い人生のなかで、うまく伝えられなかった感謝や謝罪。
・厳しく育ててきたけれど、ずっとあなたの成長を誇りに思っていた
・迷惑ばかりかけたけれど、本当は感謝していた
・一番近くにいたのに、素直になれなかった
そうした気持ちは、誰の心にもあるのではないでしょうか。
それをそのまま抱えたまま旅立ってしまうと、残された人の心には「わかっていたけど、やっぱり聞きたかった」という後悔が残ってしまうこともあります。
だからこそ、財産の分け方だけではなく、「想いの届け方」も考えておくことが、とても大切なのです。
想いを届ける手段──“祈り”という新しい伝え方
私は、そうした言葉にできなかった想いを「祈り」として神社に託す代理参拝という方法を提案しています。
たとえば、こんな風に。
「長男には、いろいろ背負わせてしまったけれど、感謝している」
「離れて暮らしていたけれど、毎年手紙をくれて嬉しかった」
「最後まで何も言えなかったけど、本当は、ありがとうって伝えたかった」
こうした気持ちを、神社という静かな空間に託すことで、 言葉以上に深く、あたたかく届くことがあります。
書類ではなく、形式ではなく、心そのものを残す。 それが“気持ちの終活”であり、人生の最期にできる一番優しい贈りものかもしれません。
「ありがとう」が届くだけで、人は救われる
人は、誰かに必要とされていた、愛されていた、感謝されていた。 そう感じられることで、自分の存在に意味を見出せるものです。
遺言書では残せない「ありがとう」こそ、 本当の意味で心をつなぐ言葉かもしれません。
その一言があるかないかで、残された家族の人生も変わります。
死後に遺すものは、モノだけではなく“心”でもある。 そのことに、少しでも気づいてもらえたなら嬉しいです。
「ありがとう」と「ごめんね」── たったそれだけの言葉が、家族をつなぎ、未来をあたたかくしてくれるのです。
Office You 高田 有希子