ある日、私の元に届いた一通のメールには、こう綴られていました

ある日、私の元に届いた一通のメールには、こう綴られていました。

「親に感謝された記憶がありません。だから、正直、葬儀のときも涙が出なかったんです」

相続や終活の現場に身を置いていると、こうした心の声にたびたび出会います。

「親は自分なりに一生懸命だったんだろう」「子どもは勝手なことを言っているだけ」──そう片づけてしまえば簡単ですが、感情は理屈では整理できません。

この小さな“感謝の空白”が、やがて家族を深く傷つけ、関係の断絶や相続トラブルへと発展していく。そんな現実を、私はこれまで何度も目の当たりにしてきました。

この記事では、そうした「感謝されなかった」という想いが、どのようにして家族関係を壊す火種となるのかを、実際の現場経験からお伝えしたいと思います。

「感謝のひと言があれば、私は遺産なんていらなかったんです」

これは、私が実際に終活支援の現場で耳にした、ご家族の言葉です。

多くの方は、相続トラブルの原因を「お金」や「遺産分割の不公平さ」だと思いがちです。もちろん、それも一因です。

けれど本質的には、「親に感謝されなかった」「自分の思いが報われなかった」という“感情のこじれ”が、火種になっていることが非常に多いのです。


■ 家族の心に残る「不平等感」

たとえば──

・兄ばかり期待されていたと感じていた弟。
・介護をすべて任され、兄弟から何のフォローもなかった娘。
・「お前はしっかりしてるから」と頼られるばかりで、ねぎらいの言葉ひとつもなかった長男。

こうした「偏り」は、親が意図していなかったとしても、子ども側には深く刻まれてしまうのです。

「お兄ちゃんばかり褒めていた」
「妹には優しかったのに、自分には厳しかった」
「弟には毎年誕生日プレゼントを贈っていたのに、自分にはなかった」
「兄だけ親に旅行をプレゼントしていたことを、あとから知った」

こういったことの積み重ねは、決して小さなものではありません。
表面的には仲良く見えていても、心の奥底には、ずっと消えない“比較されてきた記憶”が眠っているのです。

「なぜ自分だけ我慢してきたのか」
「なぜ、自分だけ認めてもらえなかったのか」

そうした思いは、本人にしかわかりません。
しかしそれが癒やされないまま蓄積すると、
葬儀や相続といった人生の節目で、強い怒りや拒絶となって噴き出してしまうのです。

生きているうちに気持ちをぶつける機会もなく、
亡くなったあとにようやく爆発してしまう──
それは、親にとっても、子どもにとっても、あまりにも悲しいすれ違いです。


■ 感謝されなかったという“空白”

介護を担っていた娘さんが、葬儀の場でぽつりとこう言いました。

「ありがとうって、一度も言われなかったんです」

彼女は何年も、ご両親の世話をしてきました。毎日の食事、入浴、通院の付き添い。季節ごとの衣替えや、年末の大掃除まで、まるで“もうひとつの人生”のように、自分の時間の多くを介護に費やしてきたのです。

仕事もパートに切り替え、昇進の話を断ったこともあったといいます。友人との約束をキャンセルし続け、旅行や趣味の時間も持てなくなっていきました。それでも「自分しかいないから」と、弱音ひとつ吐かずに過ごしてきた。

けれど、親から感謝の言葉は一度もなかった。
「いつも助かるよ」「ありがとうね」──そんな、たった一言が、どうしてももらえなかった。

葬儀の準備をしながら、兄弟に「通帳の管理はどうしてたのか」「施設に入れる選択肢はなかったのか」と言われたとき、彼女の中で何かが切れたといいます。

「私ばっかり大変だったのに。なんで誰も、わかってくれないの?」

その瞬間、心のバランスが崩れ、兄弟との関係も決定的に壊れてしまいました。

それは介護疲れのせいだけではありません。報われなかった想い、分かち合えなかった孤独、そして“感謝されなかったこと”が、長年積み重なった末の結果だったのです。


■ 「感謝されたかった」は、わがままじゃない

「そんなの求めるのは甘えじゃないか」
そう思う人もいるかもしれません。確かに、昔ながらの価値観の中では、親子の関係に「見返り」や「感謝」を求めること自体が否定的に捉えられることもありました。「親なんだからやって当然」「子どもだから我慢すべき」という空気が、今もどこかに残っているのかもしれません。

でも、人は“気持ち”で動く生き物です。

長い時間をかけて誰かのために尽くしたとき、心のどこかで「わかってほしい」「気づいてほしい」と願ってしまうのは、ごく自然な感情です。見返りを求めているわけではない。評価されたいわけでもない。ただ、ひと言、「ありがとう」「助かった」「よくやってくれたね」と伝えてもらえるだけで、張りつめていた心の糸が少しだけほどけることがあるのです。

誰かに尽くしたとき、せめて「ありがとう」のひと言があれば。
「助かったよ」「ごめんな」と言ってもらえたなら。

たったそれだけのことで、人は救われることがあります。
言葉があるかないかで、心の受け取り方はまったく変わってくるのです。

感謝のひと言があるだけで、自分のしたことに意味を見出せる。
謝罪のひと言があるだけで、自分が受けた痛みが少し和らぐ。

それだけで、心は満たされ、前向きに受け止められることがあるのです。
そしてそれは、親子という近しい関係だからこそ、より強く求められるものでもあります。


■ だから今、生きているうちに伝える

遺言書に財産のことを書くのは当然です。
でも、感情のこじれは“気持ちの空白”から生まれます。

だからこそ私は、参拝代行というかたちで、
「感謝」「謝罪」「願い」を神様に託すお手伝いをしています。

それは形式的なものではなく、
「想いが残ること」が家族の関係を守ることにつながるからです。

子どもに恨まれたくない。
兄弟で争ってほしくない。
「私はあなたを大切に思っていた」──その気持ちだけは、ちゃんと伝えたい。

そう願う方のために、私は祈りを届け続けています。

Office You 高田有希子

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