元・保険会社勤務の私が“言葉にならない願い”に向き合う理由
「ごめんね」「ありがとう」「元気でね」──本当は、もっとたくさんの言葉を残したかった。そう語る声を、私はこれまで何度も聞いてきました。
保険や終活の現場に立ち会ってきた中で、もっとも心に残っているのは、残されたご家族の静かなひと言です。
「財産なんていらなかった。ただ、最後に“ありがとう”って一言が聞きたかったんです」
どんなに財産が平等に分けられても、心の中の想いは置き去りにされたまま──そのような現実が、何度も繰り返されてきました。
「長年介護を担ってきたのに、一言も感謝の言葉がなかった」「厳しいだけだった父に、せめて最期だけでも“ごめんな”と言ってほしかった」
そうした言葉を残す機会がないまま、人生の幕が閉じる。残された人の心にぽっかりと穴が空き、後悔やわだかまりとして残ってしまう。これは珍しい話ではありません。
遺産は分けられても、気持ちは分かち合えない。それが、いまの終活の大きな課題のひとつなのです。
■ 私のこれまで
私はかつて、大手の保険会社に勤務していました。営業からコンサルティング業務まで幅広く担当し、生命保険・損害保険といった“もしも”に備える商品を扱うなかで、多くのご家庭と接してきました。
保険というと、保障額やプラン設計といった数字の話や制度の知識が中心と思われがちです。しかし、私が現場で実感したのは、その奥にある「人と人との関係性」がどれほど重要かということでした。書類の裏にあるのは、それぞれの家族の物語や、長年の積み重ねの中でこじれてしまった感情のしこりでした。
たとえば、ひとりで親の介護を担ってきた娘さんと、遠方に住み、あまり関わってこなかった兄弟が葬儀の場で再会することがあります。そのとき、娘さんはぽろりと涙を流しながらこう言います。「お母さんは、私に何も言ってくれなかった」。介護の日々を労ってもらえると信じていたのに、その一言がなかったことで、感謝されなかったという思いが残ってしまう。
また、葬儀が終わったあと、喪主を務めた方が静かに語るのです。「これから先、兄弟で話すことはないかもしれません」。葬儀という節目を機に、家族の縁が断ち切られてしまう──そんな現場を、私は数えきれないほど見てきました。
あるご家庭では、親の遺産をめぐって「兄は昔から優遇されていた」と感じていた弟さんが感情を爆発させ、相続そのものが泥沼化したこともありました。相続に関する書類は揃っていても、「気持ち」の部分が何ひとつ整理されていなかったのです。
こうした事例に触れるたびに、私は考えざるを得ませんでした。いったい、家族とは何なのか?「残すべきもの」は、財産だけでいいのか?
そのような思いが、私の中にじわじわと積もっていきました。
■ 気づきと転機
保険の仕事をしていたある日、とあるご家族との面談の最中に、こんなひと言を耳にしました。「本当は、遺言よりも、親に謝ってほしかったんです」。その方は、ご両親の晩年を献身的に支えてこられた方で、介護も看取りもすべて担っていました。それでも、親からの感謝の言葉や謝罪のひと言を受け取ることはなく、ただ遺言書だけが残されていたそうです。
その瞬間、私の中で何かが変わったのを今でもはっきりと覚えています。遺言書には財産の配分や法律上の手続きは書かれていても、「ありがとう」「ごめんね」といった心の機微までは記されていません。確かに相続の手続きはスムーズに進むかもしれない。けれど、それで本当に遺された人たちの心が救われるのか──私は強く疑問を抱きました。
「だったら、生きているうちに“気持ちを残す方法”があってもいいのではないか」
そう思うようになったのは、この出来事がきっかけでした。
■ なぜ神社・祈りというかたちなのか
日本では昔から、想いを神様に託す文化があります。これは宗教という枠を超えた、人間の自然な営みのひとつといえるかもしれません。たとえば絵馬。合格祈願や家内安全、恋愛成就といった願いを書き記し、神様に託す行為は、古くから多くの人に親しまれています。水子供養もその一例です。失った命への悼みや赦しの念を、直接誰かに話すのではなく、神仏の前で静かに手を合わせる。厄除けや初詣など、私たちは人生の節目や不安なとき、自然と神社を訪れ、祈りを捧げてきました。
信仰の有無に関係なく、「神様になら話せる」「神様になら託せる」という感覚。それはきっと、誰にも否定されず、受け止めてもらえるという安心感があるからだと思います。祈ることは、感情の整理であり、心の居場所を作る行為です。
「言えなかった気持ち」を誰にも責められずに伝えられる──その自由さ、優しさこそが、祈りの力ではないでしょうか。
だから私は、神社にお参りし、ご本人の代わりに「ありがとう」「ごめんね」「家族仲良くしてね」と、静かにお祈りを届けています。それは派手な儀式ではなく、誰の目にも触れない、ひっそりとした行為です。でも、だからこそ純粋に、まっすぐに、心がこもる。祈りとはそういうものだと、私は思っています。
そして、この静かな祈りの文化を、終活というかたちで未来に繋いでいきたい。遺産や手紙では伝えられない“気持ち”の部分を、どうか神様に託してもらえたら──そう願いながら、私はこの祈りの代行を続けています。
■ これから目指したいこと
この活動は、まだ始まったばかりの小さな試みに過ぎません。
けれど、これまでにお寄せいただいたご依頼主さまの声が、私の背中を何度も押してくれました。
「ようやく伝えられた気がする」「心が少し軽くなった」「手紙でも言葉でもなく、祈りという形がちょうどよかった」──そういった言葉を受け取るたびに、目に見えないものだからこそ丁寧に届ける意味があるのだと、あらためて感じています。
祈りは、目には映らず、形には残りません。それでも人の心に届く何かがある。
その“何か”を信じて、私は全国の神社へ足を運び続けています。
今後も毎月、各地の神社を訪れ、ご依頼主さまの代わりに“言えなかった気持ち”を静かに祈りに託していきます。
この取り組みを通して、「祈りで想いを残す」という選択肢が、もっと自然に受け入れられる文化として根づいていってほしい。
遺言や相続の話だけでなく、気持ちや関係性を整える“心の終活”として、祈りの文化が静かに広がっていくことを願っています。祈るという行為が、誰かにとっての“救い”となるように──
これからも私は、一つひとつの想いに、まっすぐ向き合っていきます。
■ あなたへ
もしあなたが、
「気持ちはあるのに言葉にできない」
「いつか伝えたいけど、タイミングがつかめない」
そんなふうに感じているのだとしたら、それは決してあなただけではありません。
多くの人が、日々の忙しさや、関係性の中にある遠慮、照れくささのせいで、
本当に伝えたい言葉を心の奥にしまったまま、時間だけが過ぎていってしまいます。
けれど、気持ちはあるのに伝えられない──その“もどかしさ”こそ、
実は、相手に対する深い愛情や想いがある証なのです。
そんな想いを、そのままにせず、祈りというかたちに変えて残すことができたなら、
あなたの心も少し軽くなり、そしてその想いは、きっと届くと私は信じています。
言葉にするのが難しいとき、私たちは“祈る”ことで、自分の気持ちを整理し、
そっと誰かに託すという方法を選んできました。
祈りは、声に出さなくてもいい。
祈りは、相手が目の前にいなくてもいい。
祈りは、静かで、でもまっすぐに、心の深いところから届けられるものです。
「ありがとう」「ごめんね」「元気でいてね」
たった一言が、後になって、
誰かの心をあたためる灯火になるかもしれません。
その想いを、祈りに変えてみませんか?
言葉にならなかった想いが、
静かに、でも確かに、誰かの心に届くこと。
私はその力を、信じています。
Office You 高田 有希子